本のはなし

東大祝辞が話題!姫野カオルコさんの「彼女は頭が悪いから」を読んでイロイロ考えた件

2019年4月24日

東大をブランド化しているのは誰か?

上野千鶴子さんの祝辞が話題だと知る前、東大の入学式がテレビのニュースで紹介されているのを見ました。なんでも入学式は大人気で、1人1枚のチケットが必要だとか…だから同伴者が入れないと報道されていました。東大グッズも人気で、入学の記念に購入する人が多いのだとか。

そのニュースを見たとき、「へ~そんなグッズとかあるんだ! おもしろいなあ」と思ったのですが、まずわたしのように東大にちっとも縁がない人間がなぜその情報を知れたのか、というところにポイントがあります。

日本にはたくさん大学がありますが、それらの大学すべての入学式がニュースになるでしょうか。そんなことないですよね。でも東大はニュースになる。テレビ番組でも「東大生なのに○○」とか「○○な東大生」とか、そのステータスを活かしていたり、逆にギャップを使ったりして、面白おかしくエンタメにしている。

わたし自身、『東大王』とか『Quiz Knock』が好きなので、これを言うとブーメランなのだけど、、

東大が国内トップの大学だということは変えようがない事実なので置いておくとして、それを「もてはやしている」のは、むしろ外野なのではないか? 作中で美咲が「東大? すごーい」と言ったように、学歴的に東大から離れれば離れるほど「すごーい」は自然と量産されるでしょう。

被害者女性がディスられたとき、「東大生は日本に有益だけど、お前はそうじゃない」的な意見があったようなのですが、これは言い換えると「東大生はほかの人を犠牲にしても守らなきゃいけない存在」なんでしょう。少なくともそう発言した人にとっては。

これは、良いとか悪いとかは別として、とても合理的な考え方ということができます。(合理主義については思うところがあるので、後述いたします)

東大の入学式のニュースを見たとき、関係者だけ理解していれば良いことを敢えてニュースにしているということは、「東大は特別なんですよ」とメディアが大々的に宣言しているみたいだなあとぼんやり思いました。

少し前、AbemaTVで「ドラゴン堀江」という番組がやっていました。堀江貴文さんが、くすぶっている芸人とグラドルを半年で東大合格させるという受験バラエティ番組で、現役東大生も視聴している人が多いとのことでした。

この番組で堀江さんは、東大のブランドがあれば仕事が増える、と繰り返していた。と同時に、某大学は意味がないというようなことも発言していました。結果的に堀江さん含む4人の受験者は全員落ちたのですが、これが番組として成り立つのは最難関の東大受験だからでしょう。そして、それを面白いと感じる人がいるからです。

 

東大生が嫌悪した「下心」とイケメンが抱く「憂鬱」

この本のなかで、つばさたち東大生は、自分のもつ「東大生」というステータスに目が眩んで近づいてくる女性たちを嫌悪していました。そういうあざとさを、この本のなかでは「下心」と表現しています。

「下心」をもって近づいてくるのは、おおよそ彼らより”レベルが低い”女性なので、彼らはそういう女性を見下します。しかし、ステータスではなく本当の自分を見てほしい的なことも書かれており、それが個人的にとても印象的でした。

そこで、ふと考えたんですよ。彼らから東大生という「タグ」を外したら、何が残るのだろうか?と。ステータスじゃなく自分を好きになってほしいということは、東大生以外の部分に価値を見出してくれ、ということになりますよね。

美咲は「東大生?すごーい」と言ったけれど、ステータスじゃなくつばさ本人を好きでした。しかしつばさは、結局自分に見合うステータスの女性と付き合い始めます。ステータスではかってほしくないと言うけれど、結局それは、自分が相手をステータスで計っているからこそ嫌悪するのじゃないか?と感じます。

ネットを見ていたら、本書に対し待ったをかけた現役東大生の男性のインタビュー記事が目に留まりました。そこで彼は、小説は現実と違うことを述べ、「東大生というステータスを振りかざす人は、それしか誇れるものがないのだと思う」と続けていました。

ところで、世の中にはイケメン・美女がいますよね。彼らは外見が美しいために、きっと中身も良いはずだと思われるのだそうです。つまりこの時点で、その外見はプラスに働いています。ところがいざ喋ってみて期待に沿わないと、普通の人よりもガクッと評価が低くなるそう。このとき外見はマイナス要素になってしまいます。

かれらはその外見で得をしているけど、その外見により被害もこうむっている。これは本書に登場する5人の東大生も同じだと思うのです。東大生だからプライドを持てるのだけど、東大生だからプライドが傷つく。

東大生じゃなければ下心をもつ女性は近づいてこなかったでしょう。でも東大生だからこそ、そういう女性を断罪しつつ優位にたつ権利(のように感じられる何か)を得ている。

ステータスはメリットでありデメリット、表裏一体。東大生に限らず、結局ステータスは自分から切り取れないのだと思います。イケメンがその顔を常に晒しているように。だけどそれが必ずしも「カッコいい」ではなく「所詮顔だけ」と馬鹿にされる可能性を孕んでいるように。

 

無駄が大嫌いな「損したくない」人々

わたしがこの本を読んで一番気になったのは東大生側の心理でしたが、多くのサイトさんは「男尊女卑」「女性蔑視」について絡めて感想していることが多いように見受けられました。

さいきんは共働き夫婦が増えているから家事分担やイクメンについても話題になります。どこまでやれば男女平等なのかについてはなかなか論争が途切れないでしょう。女性側にとっては「家事もっとやってよ!」であり、男性側にとっては「今の時代は給料も減ってるんだから女も働くのが当然だろ」である。

どこまでやればOKとか、ハッキリした基準はよくわかりません。ただ、この問題について「相手がここまでやるべきだ」「自分はこれだけやっているのだから相手もやって当然だ」という考えを持つこと自体が、ある意味では差別的思考につながるような気がしているのです。

そもそも生活に於ける分担が話題になるのは、ベースに「性による差別をするべきじゃない」という考えがあるからですよね。そこに社会的な変化が加わるから「ここまでやるべき」になったのですよね。

「これだけやってるんだから相手もやるべき」は、「これだけやっているのに相手が同じ分だけやらなかったら自分だけ損しちゃう」から嫌なんですよね。この世のあらゆる批判のなかには、この「損したくない」が潜んでいる気がします。

 

女性はなぜ「優しい男性が好き」なのか?

脳科学者の中野信子さんが「脳はケチだ」と言っていました。だから新しいところよりも慣れたところが好き。新しいところにいくと、脳で処理する余分な仕事が増えてしまう。それは「新しい考え方」についても同じことがいえるでしょう。

自分とは違う考え方。自分が慣れ親しんだものとは違う場所、時代、景色。脳はケチだから、そういう「慣れていないもの」に対峙すると「えーまた処理するの? めんどい」となって拒否する。

そう考えると「人間は本来はケチ」といえると思います。ケチだから「失敗という無駄」も排除したい。これって合理主義的な考えです。

ここでようやく家事の話に戻るのですが、つまり「これだけやってるんだからこれくらいやってよ」は合理的です。この論でいくと、もし自分の体に不調があってできなかった場合は「この前できなかったよね?じゃあ今回はその分も追加でやって」となってもおかしくありません。

しかしおそらくこんなことを言われたら「体調が悪かったんだから仕方ないじゃん! ひどい!」と思うでしょう。

このとき「なんだか体調悪そうじゃない? 無理しないで休んでなよ」と言える気持ちを「優しさ」といいます。バファリンに半分ほど含まれています。

やさしさは合理性と対極にあって、正直無駄です。なぜかというと、こちらから優しくしても、相手から優しくされるとは限らないからです。つまり「優しさ」は、「自分が損しちゃう」かもしれないギャンブル性の高いものです。(見返りを求めて行う場合を除く)

「こっちがこれだけやってるんだから、お前もこれだけやれ」だと、相手がたくさんやった場合は、こちらもたくさんやる必要があります。しかし合理的ではない場合は、「えーたまにはいいじゃーん」が通ります。柔軟です。

「優しい男性が好き」と言う女性が多いのは、目に見える表面的なものだけではなく、合理的思考のなかに潜んでいるかもしれない「女ならこのくらいやるのが妥当である(俺は男としてこれだけやっているのだから)=それができないなんてありえない」という軽蔑を避けて尊厳を保ちたい気持ちもあるのではないでしょうか。

もちろんこれは、単なる一つの考え方でしかありませんが、、

 

能力の高い合理主義者たち

さきほど優しさは無駄だと書きましたが、世間的に成功している(社会的地位が高い、お金を稼いでいる)人には合理主義者が多いように感じます。これは性格の問題ではなくて、無駄を省いて素早く計算できる能力がある、ということです。頭の回転が速いから、効率よく素早く仕事ができて、報酬が高くなる。

このような人の多くは学歴も高い傾向にあると思います。例えば『彼女は頭が悪いから』に登場した東大生たちは、仲間内でさえ心理戦を行っています。1秒前に発した言葉が相手にどんな感情をもたらしたかを察知し、すぐに最適なフォローを入れる。酒に酔っているとき以外は感情に流されず合理的。そう、合理的です。

彼らは同じ東大生同士でマウンティングし合うときには感情を読みあいますが、それ以外のときには相手の感情を考えていません。ただし、ビジネスに関してだけは「こう思うはずだからこうしよう」と考えている。だから人の心がどう動くかは理解しているのだけど、それは知識であって、戦略的であって、いわゆる「優しさ」が欠けています。

ところが、美咲はつばさに「優しさ」を感じました。おそらくこれこそが、彼女がこの事件の被害者になってしまった痛恨のミスだったのだろうと思います。

 

自己肯定感の低さが「優しさ」を勘違いさせる

では実際つばさが優しかったのかというと、そうではありません。「(美咲ちゃんを選ばないなんて)ほかの男は見る目ないね」と、遊び慣れた男が言いそうな言葉をポロッと口にしただけ。慣れた女性なら「でしょー!」と笑い飛ばすところです。

しかし美咲は今までこういった言葉をかけられたことがなかった。この言葉のキモは、「女性として認められた」ということだけではなく、根本的に「自分を肯定してくれた」というところにあるように思えます。

よく、日本女性はドMで従順で少し褒めただけですぐベットインできると揶揄されます。これは、他国にくらべて日本女性が「大切に扱われ慣れていない」「褒められ慣れていない」からです。海外では女性のほうが強い国や、男性が女性をたてないといけない国もありますよね。だけど日本はそうじゃない。

小説の美咲は自己肯定感がとても低いキャラクターでした。嫌なことがあったときは「きっと気のせいだよね」とポジティブ転換しているし、「わたしなんかじゃだめだよね」という自己卑下も多いです。つばさの一言はこういった自己肯定感をすべて救ってしまいました。

恋愛ものストーリーだと、こういった些細な一言が大恋愛に発展するところですが、、

 

「すごい」「えらい」「しっかりしてる」が正しいという社会の呪い

小さいころ、親や周囲の大人が「○○ちゃんはえらいね」「あの子はしっかりしてるな」 「あそこの息子さんは○○に就職したらしいわよ。すごいわねえ」と口にしたことはなかったでしょうか?

例えば親に「○○ちゃんは難関大に受かったそうよ」と言われた場合、それはただの事実の伝達です。しかしそこに「すごいわねえ」がプラスされると、自己肯定感の低い子供の場合は「○○ちゃんは難関大に受かったそうよ。すごいわねえ(それにひきかえウチの子は…)」と省略された言葉を受け取ってしまいます。

親にとってそんなつもりで言った言葉ではなくても、少なくとも「難関大に受かる人=すごい、という価値観を持っている」ことはその台詞で確定します。そこに該当しない自分は、親にとって「すごくない」ことももちろん確定です。

子供は誰だって親に愛されたいし認められたいわけですから、自分だってほめられたいと頑張ります。親に愛されるという根本的な自己肯定感を高めるためには、親の価値観をクリアしなければなりません。

そこで、大人が一様によく褒める「すごい」「えらい」「しっかりしている」人を目指します。失敗は許されません。

そこで有効な方法とはなにか? そう、合理的に物事を運ぶことです。

すくすく育った子供はやがて、「すごい」「えらい」「しっかりしている」人は正しいけれど、それ以外の人間は「ダメ人間」のレッテルを張って攻撃します。人生をドロップアウトした人、挫折した人、ルールを犯してしまった人…そういう人を見下します。

社会にはびこる「すごい」「えらい」「しっかりしている」をうまくこなしてきたのが、つばさみたいな人なのでしょう。反対に、うまくその軌道にのれずに挫折を味わって自己肯定感が低いまま進んでしまったのが、美咲のような人なのでしょう。

正反対の人格だけど、根本はどちらも同じで、社会的な呪いがこのような事件を起こしている気もします。

「すごい」とか「えらい」とか「しっかりしている」とか、相対的な価値観です。ある人はそう思っても、別の人はそう思わないかもしれない。けれど親がそういう思想を持っていたら、子供は敏感に察知します。そして社会が暗黙の了解でそれを強制してきたら、やはりそのメッセージを受け取らざるを得なくなります。

 

母親という身近で特別な女性

『彼女は頭が悪いから』では、ラストに東大生5人の母親が登場します。どの母親もインパクトが強く、自分の息子は悪くないと思っています。自分の息子の失敗=自分の失敗ですから当然かもしれません。

母親にとって、息子という異性の子供にトラブルが起こったらほとんど相手の女性のせいでしょう。仮に息子が悪くても、表面上すみませんと謝っても、感情的には息子を擁護するのではないかと思うんです。もちろんそうじゃない女性もいると思いますが…!

わたしは、ここにこそ本当の性差別が潜んでいるのではないかと感じます。この呪いは息子に受け継がれ、その妻となる女性に受け継がれ、その子供に受け継がれ…永遠に解けないと思うのです。

つばさの母親は、息子が起こした事件について「あの子は私に似てなんでも受け入れてしまう(受け身である)」みたいなことを感じていました。彼女は息子に対して献身的です。玄関につばさが立っているとサッとスリッパを出します。至れり尽くせりです。

母親という存在は、子供にとってこの世で初めて出会う女性であり、もっとも身近な女性で、おそらく女性像の根幹となる人物です。その母親は、いつでもつばさのいうことをきいてくれる。自分の嘘を信じてくれる。自分のスケジュールに合わせて犠牲になってくれる。

このような環境で育った人物にとって、果たして女性という生き物はどんな存在だったでしょうか?

 

すぐ隣にある「あなたとは違うんです」

今から10年以上前の2008年9月1日、福田康夫元総理大臣が発した「あなたとは違うんです」がユーキャン流行語大賞に選ばれ流行りました。実際には「あなたと違うんです」だったそうですが、この当時はそんなこととは露知らず、「おお~言いますな!」と思ってよく話題にしたものです。

「あなたとは違うんです」という言葉には、本書の東大生たちが抱えていたようなプライドが感じられます。しかし実際には、この「あなたとは違うんです」は世の中にものすごく溢れています。

スクールカーストや出世競争、兄弟格差などなど、誰しも何がしかの「あなたとは違うんです」を持っていて、口には出さないけれど、これによってプライドを保っているところがあるのでは、と思います。

この本や、元になった事件は、東大生だったことが大きなインパクトを生みました。しかし同じ構造のものは社会にいっぱいあって、ただ単に東大ほどのインパクトがないから話題にならない。

「まさかあの東大生が?」というインパクトの裏には、「東大生は真面目でキチンとしていてルールを逸脱しないはずだ」というバイアスがあるのじゃないかと思います。良く考えると、それも社会的な呪いなのかな、と。

今回久々にストーリー性のあるものを読んだし、内容が内容だったので、思うところがいろいろありました。思考があれこれ飛んで、すべてをまとめきれなかったけれど、とりあえずここで感想は終わりにしたいと思います。

万が一さいごまでお付き合いくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました!

ではでは、また、、

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