こんにちは、もとみんです。
今日も今日とて育児にてんてこまいですが、今日はわりと早めに子供が眠り、ちょっと時間ができましたので「おっしゃ!」と思って今これを書いています。
我が子はいま1歳4カ月で、さいきんではすっかり一人で眠れるようになりました✨
とはいえ布団で綺麗に寝るのではなく、だいたい何度かダイブしてきて、最終的にわたしを枕にして寝るようなかんじです。たまにエルボーが入って痛いのですが、まあそれはご愛嬌…眠れればいいんだよ眠れれば!!!
と、いつもはそんな塩梅なのですが、今日は珍しく立ちながらだっこして眠りました。
「おっ、懐かしいね!?」なんて思いましたが、本人がそれがいいと泣いて希望してきたのでそうしました。
もう寝たかな?と思って途中でおろすと「うぎゃああ!」と泣きわめき、おいおいまだ起きてたんかい!とツッコミをいれること数回……ようやくすやすやと就寝です。おやすみベイビー!
ちなみに今日のねかしつけ、約2時間かかりました。
長い~~!!!!!;;
もはや数か月前の悪夢の再来かと思いましたが、まあたまにはこんなこともありますよね。
しかしそれにしても……
手がかかる。じつに手がかかる。
もっと手がかからなければ楽なのになあ…なんて思ったものの、ふとあることが脳裏をかすめ、「いや、これはこれでいいのだ!」と思い直しました。
その「あること」とは、「”手がかからない子は良い子”問題」です。
なぜ親は「手がかからない子」を「良い子」というのか?
「この子は手がかからなくていい子なのよ~」的な言葉って、今まで一度くらいは聞いたことありませんか?
家族、母親や父親、近所の人、ママ友、先輩、後輩、それ以外にもドラマや映画や漫画などなど、どこかしらで聴いたことがあるのではないかと思います。
親の立場になってみると、「手がかからない子」というのは本当に楽ですよね。
たとえば寝かしつけでサッと寝てくれるとか、癇癪を起さないとか、とにかく手がかからないというのは親からすれば天国です。
しかし、この「手がかからない子」に対して「いい子」という評価を付与する場合、ちょっと事情がかわってくるように思うんですよね。
というのも、「手がかからなくていい子」=「手がかからないからいい子」ということであり、これはつまり「面倒じゃないからいい子」ということになります。
これ、恋愛におきかえてみると分かりやすいのですが、恋愛ではよく「面倒くさい女・男」みたいなのがあって、面倒な人間はたいがい嫌がられます。
逆に、面倒じゃないライトな雰囲気だと「いいかんじ」になるわけで、これは恋愛でいうところの「ノリが軽くて都合がいい相手」ということになります。
これを踏まえると、「面倒じゃないからいい子」とは「都合がいい子」ということです。
じゃあ一体誰にとって? もちろん親にとって!
そう……つまり、
「手がかからなくていい子」とは、「親にとって都合がいい子」のことです。
「手がかからなくていい子ね」は呪いの言葉?
そう考えると、「あなたは手がかからなくていい子ね~」は「あなたは私にとって都合がいい子だわ~」という宣言であり、まったくもって子供を褒めていませんよね。
そう、これ、ちっとも子供を褒めてないのです!
でもですね、「手がかからなくていい子ね」って言われたら、子供としては「褒められた」と感じるのです。なぜかといえば、自分の振る舞いにより親が喜んでくれたから。
だれかが喜んでくれると、自分の価値が上がったように感じたり、自分が肯定された気分になりますよね?
だからこそ、「手がかからなくていい子ね」と言われた子供は、それが嬉しくて、さらに期待に応えようとしてしまう。もしくは、期待を裏切らないように言動をセーブしてしまう。
「これをしたいけど、こんなことをしたら親に負担をかけるかもしれないから、やめておこう」
「本当は嫌だけど、そう言ったら親から落胆されるかもしれないから、我慢しよう」
こんなふうに本音を押し殺して、親の都合のいい子供になっていく。
しかし恐ろしいことに、親はこれに気づいていません。あくまで、子供がもともとそういう資質だと思っているんです。
でも違うんです、そうじゃない。
親のなにげない一言が原因で、「そうしなくちゃ親の期待に応えられない(=見捨てられる)」と思うようになったから、そうせざるをえなくなってしまったんです。
でも、「手がかからなくていい子ね」といった言葉をさらっと口にだせてしまうような親には、それがわかりません。だって、その言葉が子供を支配しているなんて考えていないのですから…
それどころか、「この子とはウマが合う」「この子とは相性がいい」とまで思っていることすらあります。
しかし…それは誤解!
ウマが合うんじゃない、相性がいいんじゃない、
優しい子供が親に合わせてあげているだけです。
だからこそ、「親がラクチンになれたとしたら、それは子供が努力してくれているおかげ」くらいに考えたほうがいいと思うんですよね。
もちろん、なかには本当にそういう資質の子もいると思います。最初から手がかからない、一人遊びが好き、なんでも自分でやる、そういう資質の子もきっといますよね。
しかし先ほど書いたように、親の期待に応えようとするパターンもある。この場合、親は我が子に対する自分の影響力がいかに絶大かという部分を考えないとまずいことになると思うんです…
なぜなら、親のなにげない言葉は薬にも毒にもなる。そして、生涯を通じて子供に影響を及ぼす場合があるから。
では、「あなたは手がかからなくていい子ね」という言葉は、薬か、それとも毒か?
この言葉は、ほかでもない「呪いの言葉」だと思うのです。
「手がかからなくていい子」が本当に求めているもの
「あなたは手がかからないいい子ね」と言われた子供は、それが嬉しくて、その後も親の期待に応えようとしたり、親の期待を裏切らないようにしようと言動をセーブします。
それにより、「手がかからないいい子度」が強化され、ますます親の期待から外れない「親のいうことをきく子」ができあがります。しかしその裏には、もちろん抑制された「本音」がある。
「本当はこうしたかった。でもできなかった」
「本当はこう言いたかった。でもできなかった」
親の期待を裏切ったら、自分は「良い子」ではなくなります。本当はただ単に「親の都合のいい子」じゃなくなるだけですが、親に喜んでもらいたい子供からすれば、「良い子」でなくなるのは恐怖です。
でも、子供が本当に望んでいるのは、もちろん「親の都合のいい子でいつづける」ことではないですよね。それはあくまで、「親に喜んでもらうため」「褒めてもらうため」の手段にすぎません。
じゃあ子供が本当に望んでいるのはなにか?
これは、「親に喜んでもらうため」「褒めてもらうため」よりももっと根本的なものですよね。
一言でいえば、
愛されること。
です。
「手がかからなくていい子」が本当に求めているものは、「親に愛されること」。
これ、たぶん親からしたら「なにいってるの、もちろん愛してるよ!」となると思うんです。
しかし「手がかからなくていい子ね」といわれたら、そこには「手がかからないからこそいい子」という親の価値観ががっつり入り込んでいます。
手がかからない「いい子」じゃないと愛されない。
手がかかる「悪い子」になったら、もう愛されない。
いやいや、そんなの言葉のあやだよ!と思うかもしれませんが、そもそも言葉って相手に想いを伝えるために存在しているわけで、そこを適当にしたら伝えたいことも伝わりませんよね。
ところが、なまじ近しい仲だとそういうのもうやむやになったりします。だからすれ違いがおこる。
そういう意味では語彙力とか理解力とか読解力とか、国語的な能力って本当に大切だと思います。
子供は、親を恨み反旗を翻す
「手がかからないからいい子ね」の呪いにかかった子供は本音を押し殺してなんとか生きているわけですが、それも限界を迎えることがあります。
それはいわば、「求められたとおりこんなにいい子にしているのに、まるで本音に気づいてくれない!」という、怒りです。
以前なにかの本で読んだのですが、怒りの正体は「悲しみ」なのだそうです。
つまり子供としては、「本当はもっとこうしたい」ということを認めてほしいし、それを許してほしい。
そしてなにより、「親の期待を裏切るようなわがままな悪い子(手のかからないいい子の対極にあるもの)」であっても、ちゃんと愛しているよ、と言ってほしいわけですよね。
親のほうは自分の言葉が呪いになっているとは気づかず、「え、だったら最初から言ってくれればいいのに」なんてふうに思うかもしれません。
でも子供のころに親に言われた言葉って、親が思うより絶大なんですよね。なにしろ家庭のなかで子供は一番非力で、いうことをきかなければ生存の危機に晒されてしまいますから!
そのあたりを考慮せずに呪いの言葉を気軽に口にし、その後フォローすることなく、誤解を解く機会もないと、場合によっては子供から恨まれる可能性もあって、これはけっこうヤバいと思うのです。
近年、子が親を手に掛ける事件が世間をよく賑わしていますが、あの手の事件の多くは「真面目でいい子」によるものですよね。
ニュースなんかでは、あんな真面目でいい子が何故…みたいな言われ方をするんだけど、個人的には「それは当然だよ…」と思ってしまうこともしばしばです。
親の期待を裏切らず、親に迷惑をかけず、手のかからない良い子として生きてきた。
でも本当は、もっと自分のやりたいことや言いたいことがあった。
なんでそのことに気づいてくれないの??
もう限界だよ……
……って、ことだと思うんですよね。
だからあの手の事件って、子供側の「もういい加減わかってよ!助けて!」というSOSであり、「抑制されてツラいのにそれに気づいてくれなくて失望した!恨んでやる!」という叫びだと思うんですよね。
もちろんこういった事件は極端な例ですが、少なくとも抑制されてフラストレーションがたまり続けた子供はそれなりの恨みを親に抱くと思います。
最初はいいんですよ、親が喜んでくれれば嬉しいって、純粋にそう思えていたりするから。
だけど成長して知識や知恵がつくと、そう思っていたことが勘違いであることに気づくんです。そして、親の期待にこたえようと頑張っていたあいだに失ってしまった尊い時間に愕然とするんです。
時間はどうあがいても元通りにはできない。だからこそ、人によっては恨みが強まる可能性も高いのかもしれない…そう思います。
「手がかかっても良いんだ!」と楽しもう
わたし自身、親からさまざまな呪いの言葉をかけられました。もちろん、親はそれを呪いだなんて思ってないし、それどころか覚えていません。マジありえん!(大憤怒)
え〜こっちは長年苦しんできたのに!?と思いますよね。なんて阿呆な時間を過ごしてきたのかと😂
結局のところ、親の意図と子供の受け取り方は全然ちがうわけで、どっちが悪いだのなんだのと言い合ってもこれは埒があかない問題です。
親子といえど違う人間ですから、感覚も感受性もなにもかもちがう。まあちょっと同系列の遺伝子があるかな?くらいで、基本は他人であって、なんでもわかりあえると思ったら大間違いですよね。
だからこそ、たとえば手がかからなかったら、「あなたは手がかからなくていい子ね」ではなく、手がかからなかった、という事実だけを伝えたほうがよいと思うのです。
ちなみに、類似表現に「手がかからなくて助かる」といった文言がありますが、これもちょっと微妙だなあと感じます。
わたしは小さいころ納豆が好きで(今でも好きです)、母親から「あんたは納豆とか安いものが好物で助かるよ」と言われたことがあるんですね。その当時は、「高級品が好きなきょうだいより、自分のほうが親の役に立っているんだ!」というちっぽけな喜びがあったのですが、20代なかばになってようやく魔法がとけました。
わたしは親を助けるためにいきているわけではない!、と。
それに、「助かる」なんていわれたら、まるで親のご機嫌うかがいのために納豆を好きになったみたいで、心から純粋に好きであるという気持ちを蔑ろにされた気分になったわけです。
これは、「好きでやっていることに対して報酬が支払われると、途端にやる気がなくなってしまう」という心理学の現象と同じではないかと考えます。
個人的には、「あなたは手がかからなかったよ。だから楽させてもらった、ありがとう。あ、もちろん手がかかるようなことしてもいいんだよ?ただし犯罪はのぞく!」くらいのかんじがいいんじゃないかなあと思っています。
まあ、うちの場合はけっこう手がかかるので、そういう台詞は言う機会がないかもしれませんが…(笑)
子育てはなにかと手がかかりますが、これもひとつの経験として、こんなふうに駄々こねるんだなあ、とか、いろいろ発見をたのしみたいですね😊
ではでは、また!